今回は坂本・滝が話し、ゲストに社会・福祉の分野をジェンダーの視点で研究されている堅田香緒里さんをお招きしました。
坂本は今回の展覧会で魔女についてリサーチをしています。堅田さんは「魔女」という生き方をある理想形として捉えています。過去作品「Unforgettable Landscape」を見た後、様々な視点から議論がなされました。
ある女性がどのような役割を持ち、どうして「魔女」になったのか?
近世ヨーロッパで社会パニック的に起こった「魔女狩り」の起こった社会変化や、資本主義に向かっていった近世の意識とは?、ジェンダーやフェミニズムについて話す時の話づらさなどを話し合いました。
後半は滝・小口が担当するライブラリーについてメンバー同士で話し合いました。
以下レポート
トークイベントメモ:坂本夏海
坂本さんは家の近くにある、魔女と名乗る方が営む喫茶店に通って話を聞き、その人のインタビューに基づいた映像を制作している。(そこで頂いたハーブティーをトーク中に飲みました。)
なぜ魔女に出会ったかについて。
2014年、ロンドンのファインアート科の大学院に行く前、自分の祖母の記憶や忘れられない風景について日本で制作をしていた。その風景というのは、北海道にある「ナナカマドの樹」がある風景。日本ではアイヌで儀式に使われるなど、神話と絡んでいたり、また同時に祖母のパーソナルな風景でもある。
木と物語を出発点として、イギリスでも何か出来ないかと考えていた。気候が北海道とちょうど同じくらいで、ロンドンでは街路樹としてナナカマドの樹が多いことを発見し、街の人にナナカマドの話を聞いていった。でもロンドンは移民が多く、その土地の人と植物と結びつきが弱く、多くのことを知る人はいなかった。じゃあちょっと旅をしようと、スコットランドに入ると、ナナカマドを知っている人に多く出会った。人々にインタビューをして行き、最後に魔女よけとして庭に植えてるという人が多く居るというのを知った・・・「Unforgettable Landscape (ROWAN TREE)」はこのような作品だ。
-「Unforgettable Landscape (ROWAN TREE)」上映-

展示風景「チェルシー・カレッジ・オブ・アーツinterim show」(2014) チェルシー・カレッジ・オブ・アーツ、ロンドン
この作品でランダムに出会ったことをロンドンから持ち帰り、反芻し、ディベロップメントさせていて、魔女というキーワードに興味を持ち、リサーチを始めた。
-作品を作るのにどれぐらい掛かるんですか?
この作品はリサーチ、人に話を聞くのを含めたら4カ月ぐらい。
ここ(スコットランド)では、人々が悪い魔女というネガティブな意味で魔女という言葉を使っていた。ナナカマドの樹も、魔除けになると言って庭に植える風習が今も残っている。また日本だと、魔女というとファンタジーのイメージが強い。魔女という言葉には色々なイメージがある。
この作品(「Unforgettable Landscape (ROWAN TREE)」)を制作していた当時は魔女とフェミニズムや女性の歴史などの関係性をほとんど知らなくて、それを考えるきっかけになったのが、今飲んでいるお茶をくれた魔女の女性だった。
-お店を描いたドローイングをみながら-
今回は取材を映像や録音で記録するのをやめようと思った。この場所に興味をもったのは偶然で、息子を児童館に毎日連れてった途中に新しくできたお店を発見して、庭がイングリッシュガーデンで素敵な所だなと入っていったら、店主の方が「自分は魔女だ」と言ったことがきっかけだった。お店にはケルトの十字とかがあった。そこで知ったのが、魔女って誰でもなれるということ。彼女も自分を魔女と名乗っていて、魔女の仕事としてカフェを営んでいると言っていた。何のことだか最初わからなかったけど、取材をしていくうちにWicca(ウィッカ)という、特にアメリカやヨーロッパを中心とした魔女宗というのがあることを知った。それはキリスト教の持つ一神教的な考え方や、女性軽視の構造をもつことに対して、反発の精神をもっている。ウィッカは女神と男神がいる多神教で、自然崇拝の復興を目指し、宗教のように決まった儀式や白魔術というおまじないをしたり、日本でもしている人たちがいる。私が出会った魔女の女性もウィッカの師匠がいて、そこから習ったらしい。資格はないらしく、自分で勉強して、実践する。彼女の話を聞いて、「あ、現代にも魔女っているんだ」というか、現代で実践してる人がいることに驚いた。
そこからこの本「キャリバンと魔女(シルヴィア・フェデリーチ著)」を読み始めた。
話は戻るけど、記録はデジタルを避けて、紙でメモしたり、カフェに通って直接話を聞いて、魔女はどういうものであるかを知ろうと思っている。魔女の世界が父権じゃなくて母権って彼女が言ってたことは、フェミニズムに繋がっていると感じた。彼女は薬草を育てているんだけれど、食べ物とか大地から育つものが自然の恵みで、それらを崇めるのが母権的な教えなんじゃないかという話をしてくれた。彼女自身もあまりマジョリティに属せなかった幼少期を過ごしたこともあり、魔女っていうのが普段は差別されるけど、ピンチの時には占いをしたり薬を煎じてくれる、村のはずれにいながら頼られる存在のイメージがあったそうで、それが自分の憧れの職業となったそう。魔女としてお店をやる夢は30代くらいに浮かんだそうで、お茶やハーブを煎じ、占いもするというお店を今されている。
魔女の歴史をフェミニズムで紐解くと、元々魔女とはどういう人々だったのかを考えると、全員黒魔術とか悪魔みたいなことをやっていた訳ではなくて、もとはただの賢い女性だったことも興味深い。西洋医学の発展する前に薬草を煎じた人たちは現代の医者のような役割をしていた。
性に関する話だと、出産を目的としない性行為は、キリスト教の中でカトリックだと死罪で、娼婦も、中絶する女性たちも魔女と呼ばれた。魔女といえば人を呪うとか恐ろしいイメージがあるけど、実際魔女狩りで告発されたのはただの農民女性だった、むしろ自立して賢い女性たちだった、という歴史がある。
魔女狩りの背景として、ちょうど資本主義が生まれた時、つまり封建制から資本制に変わった時の社会の流れがあった。抵抗していく女性たちをどんどん殺していこうという流れがあった。また魔女狩りは、再生産、子供を産む等、女性の長所によって得てきた力に対する攻撃でもあった。
この本では、女性の体と労働と性的な再生産能力を国家が全部持ってしまおうという目論見があったんじゃないかっていうのを言っている。
例えば魔法を使う=労働をしなくていいんじゃないかと思わせたり、中絶は女産婆さんが勝手にやったんじゃないか、と魔女の疑いをかけたり。結局、産婆は元々女性の仕事だったのにこの時代の流れで一回全員男性にとって代わられた。
あとなんで再生産かというと、この時代人口がすごく減っていたのもあって、次の労働力を産み出さなきゃいけないということで、女性の子宮を国がコントロールしたいということもあったりとか。
そういう意味でそれにそむく女性たちを魔女というレッテルを貼って、身近な人々が魔女を政府に密告していった。
そのように家父長制が確立されていった。中世には魔女はいたけど迫害はなかったそうだけど、魔女狩りでどんどん消された。その背景は同時期に伝染病が流行ったり不安定な民意が募って集団パニックになったことも。
魔女狩りがなかったら世界はどんなものになっていたかを想像してみたい。
インタビューをしている彼女にも女性や母親などの役割について思うことやライフストーリーを聞いていて、現代の魔女がどういうものなのかなど、自分の興味を詰めていっている。
作品は、事実を伝えるだけでなく、ドキュメンタリーのように相手の話を紡ぎながら、物語や曖昧なフィクションを作品の構造に入れていきたい。
魔女の語源は垣根を越える人という意味だそう。その垣根は階級や宗教、男女でもいいし、障がいとか、しがらみから抜けだすという意味での様々な象徴になると思ってる。
自由に生きるっていうのが魔女で、実践としてやっているのがこの女性なのかなと思っている。
ドローイングも入れる予定。
魔女狩りをプロパガンダとして広めた最初の手法として絵があって、印刷技術が広まった時代と重なった。集団パニックになった理由も、メディアが「これが魔女の顔です」と広めたせいで「あーあいつはそうだ!」と民衆を促した。もちろん、これに加担した画家たちもいた。人々の記憶に及ぼすイメージの力、絵の力、が気になっているので、これらのイメージを解体する感覚でやってみたい。(アルブレヒト・デューラーの絵をみながら)これがほうきに跨った魔女。
映像作品と、インスタレーションでドローイングをやろうとしてる。
~ディスカッション
−魔女がキリスト教ではないという話について。魔女の宗教はどういうもの?
−宗教はその地域によって変わっていく。ヨーロッパ内で当時飛び火のように魔女狩りが起きていたから、各場所によって事例が違う。
ウィッカは1960年代頃に出来たもので、自然崇拝、女神崇拝が基本。儀式や内容は、満月にやる儀式とか色々ある。エジプトとか、ケルト等様々な宗教のいいとこ取りで合わせた感じだそう。フェデリーチは魔女と宗教の関係については書いてなかったので、他の本にはあるのかもしれない。
先日行った講演会で、クイアの方が自分を名乗るときに、カタカナのクイアよりも魔女といったほうがしっくりくると言っている方がいて、魔女の解釈が幅広いことに驚かされた。魔女=周縁という定義がしっくりくる。広がりがあって面白い。
−魔女は境界を無視するから、クイアも分割されてしまってきている時の魔女というのがおもしろい。
−LGBTQとどんどん足されていってる。そして定義されていく、疲れちゃう。
−決めたくない人もいる。日によっても変わる、明日違う可能性があれば名乗れ無いのでは。
−20年代に現写真というくくりの研究でデューラーも関わっているものがある。オカルトや心霊写真とかの研究。取材を記録機器を使わない方法で坂本さんがやってるのが面白い。魔女が映し出される、真実が映る、という方面にいくのではないかんじが。例えば現代の写真でも、映し出されるもの=真実という関係は崩れているから。(SNOWとかの写真加工アプリなど)
−性別によって社会的に与えられる役割ということが邪魔をする時がある。(権威的な)男性が作った歴史、とか男性に対して言うと、責められてる、責めてしまう体制になってしまう。
−参政権が与えられる時の話だと、性別だけでなく個人の財政とかの話も入ってくる。男性か、女性かというよりは、誰に参政権が与えられれば豊かな国になっていくのかという観点で動く。そんなにジェンダーが中心の問題では無い。最初の疑問に戻ると、それでもこれが欠けてる、というかんじが出てくるのは仕方ない気もする。
−ジェンダーやフェミニズムの言葉のイメージを変えられたらいい。
−自分が関心を持つきっかけになった本を、市の図書館とかどこに置いてるか結んでいくと、女性問題はあってもジェンダーやフェミニズムの棚はない、小説だったり、選挙権なり、裾の尾を広げると図書館ひとつとってもいろんな所に及ぶことが予想できる。
無いって批判するのではなくこれだけ領域を渡ってることが示せたら。
無いことの批判に穴埋めするのではなく、それに代わることができたら。
−この人すごいいいこと言ってない!?たったひとつのなにかで全て説明ができたら恐ろしい。
(時間になったので一旦終了)
ディスカッションメモ:滝朝子
滝は、何かをやることでその場が変わっていく、アクティビスト的な活動を継続中。
ライブラリーについての話し合い。
今回の設営では建築の人に協力してもらうので、相談した所、展示全体で使われる什器はベニヤ板ということだったがコンセプトと合うだろうか?という確認があった。都美館は歴史的にも長く、展示が行われるスペースAの空間の雰囲気としても、比較的新しい木材でバランスがとれるのか、とのことだった。
しかし、女性の歴史をたぐり寄せるとき、新しい時代に、新しい価値観を持って作品が作られるという意味では新しい木材を持ってきてもいいのではないか、本当にバランスは悪くなるのか。
−建築の人と仕事をしたことがあるけど、依頼人の知識だけで材料を決めてしまっているケースがあるそう。一般的な原料の相場などと建築の人が知るルートでは値段が変わることがあるので、建築の人は一旦全部の理想を言って欲しいはず。
2017年にBack and forth collectiveで行ったポップアップライブラリーの発展形をやりたい。出展作家や知り合いに依頼し、ジェンダーやフェミニズムの考えに助力した本を選書してもらう。
−そこで選ばれなかった本について、その本が無いという人が出てきた時に、排他的にならないようにしたい。図書館であるリクエストボックスのように、来場者が推薦する本を書き、ポストしてもらい、実際東京都美術館内の図書館や、周縁の図書館にもリクエストするという案が出たが、その扱いをどうするか?
−書かれたリクエストは可視化したほうがいい?書くことに積極的になれ無い人もいる。
−書けるスペースをいくつか用意して、書く場所を固定しないことで気軽に参加できる環境を作ってみては。